- #濱谷浩
写真展「生誕100年 写真家・濱谷浩」
日本の現代写真史に深くその名を刻み、世界的にも高い評価を得てきた写真家・濱谷浩(1915-1999)は、写真館を経営していた父の知人から、ブローニー版のハンドカメラを贈られたことをきっかけに、写真をはじめます。以来、70年近くの歳月を費やし、独自の写真哲学を築きあげました。「写真そのものの視点」を目指しながら、単なる報道写真でも、芸術的な私的表現でもない写真を、理屈を超えた体験的取材を重ねることで追及し続けました。
大正期の東京下町で少年期を過ごし、早くも18歳にして写真の世界に入った濱谷は、1937年にフリーのカメラマンとして独立。1938年には土門拳らとともに青年報道写真家協会を結成します。すでに時代は戦時体制に入っていましたが、雑誌の仕事などをこなしながら、モダン都市・東京の光と影を写し、当時、注目を集めていた国内外の「新興写真」にも接しました。しかし、1939年の冬、豪雪に埋もれた新潟県高田市(現・上越市)を訪れたことをきっかけに、濱谷は大きくその視線を地方へと転じることになります。同地で民俗学者・市川信次に出会い、翌年からおよそ10年間に渡りこの地へ通い続け、新潟県中頸城郡谷浜村の小正月の民族行事などの調査撮影を行いました。これが写真家・濱谷浩の真の出発点となります。日本の風土とそこに生きる人々の暮らしに目を向け、地方にこそ日本の原質があるとしてそれを淡々と記録していきます。その成果は一冊の写真集『雪国』(56年)にまとめられ、写真界に衝撃を与えました。
戦争末期、濱谷は高田市に疎開し、終戦を迎えます。1945年8月15日、戦争終結を知り、その日の太陽を撮影、これは《敗戦の日の太陽、高田、1945年》と題され、終戦の日を象徴する写真となりました。1952年に10年間過ごした高田を離れ上京すると、青森県から山口県まで、日本海沿いの人々の生活を4年間かけて取材、これがもうひとつの代表的写真集『裏日本』(57年)としてまとめられました。
1955年、エドワード・スタイケンによって企画された写真展「ザ・ファミリー・オブ・マン」(ニューヨーク近代美術館)に出品、1960年にはアジア人としてはじめて、ロバート・キャパやアンリ・カルティエ=ブレッソンらによって設立されたマグナム・フォトスと契約するなど、国際的にも広くその名を知られるようになります。
1960年、濱谷は再び大きな転機を迎えます。国を揺るがした安保闘争の現場撮影に奮闘し、写真集『怒りと悲しみの記録』を刊行。闘争の挫折に大きく失望した濱谷は、その後大自然の撮影へと視線が移り変わっていきました。
本展では、日本の風土に着目し、そこに生きる人々の生き様を写しだした作品を中心に、戦前のモダン都市・東京、戦後昭和、また肖像写真の代表作である『学藝諸家』までモノクローム作品約200点を厳選して紹介します。加えて今まで展示されることのなかった貴重なコンタクトプリントや掲載雑誌等の関連資料も展覧し、写真家・濱谷浩の仕事を多角的に紹介します。
構成
序章(プロローグ) モダン東京
第1章 雪国
第2章 裏日本
第3章 戦後昭和
終章(エピローグ) 學藝諸家